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読者の皆さんへ

読者の皆さん、といっても、ほんの数人だと思いますが・・・。^^;いつも、このブログをお読みいただき、また時折コメントをくださる方もいらっしゃり、本当にありがとうございます。m(_ _)m

クリスチャンになる洗礼を受ける前から書いているので、ずいぶん記事を書きましたが、ここで一旦、終了とさせていただきます。記事を書くことで頭の整理にもなり、聖書の教えの理解が深まりましたが、最近「メンタルヘルス・マネジメント検定」というのに興味を持ち、そちらの勉強をしてみたいと思うようになりました。私自身、精神科に通院している身の上なので、そんな私がそのような資格を取ったところで、何ができるかわかりませんが、患者だからわかる事もあると思うので、専門的な知識を身につけつつ、手探りで可能性を探ってみたいと思っています。もちろん、聖書の勉強も続けます。聖書は奥が深いので、一生かけても完全には理解できないでしょうが、心が癒されるだけでなく、生きるためのヒントがもらえて、私には、なくてはならない書物だと思っています。ただ、メンタルヘルスの勉強のために時間が必要なので、このブログは残念ですが、やめることにしました。

ブログは他に「ハロー!ハロー!」がありますので、近況についてなどは、そちらに書かせていただきます。最近あまり更新していないので、もう少し頻繁に更新しようかと思います。

それでは、ネット上の友人の皆様、今後ともよろしくお願いいたします。m(_ _)m

シトリン(旧ペンシル)
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ソドムの滅亡

[旧約聖書 創世記19章1~29節]

この箇所は、聖書中で有名な、ソドムとゴモラの街が滅亡するお話です。神を畏れず、悪徳をはびこらせたこれらの街は、神様により、裁きを受けました。その際、ソドムに住んでいたロトとその妻と2人の娘だけが、神様の御使いによって、救出されます。しかし、ロトの妻は、主が彼らに告げられた「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。」という言葉に背き、焼き尽くされていく街を振り返って見てしまったため、塩の柱にされてしまったのでした。

神様の二人の御使いは、旅人の姿でソドムの門の所に座っていました。当時、ソドムの街は物騒でしたから、旅人というのは、強盗である可能性もあり、用心すべき存在でした。しかしロトは、ひれ伏して彼らを家の中へ迎え入れ、一晩泊まるよう促します。ロトもアブラハム同様、二人の旅人が神様の御使いであることが、瞬時にわかったのです。「よそ者」である二人の旅人を迎え入れたロトに対し街の人々は、激しく批難し、ロトを「なぶりもの(=レイプ)」にしようとしますが、御使いがロトを救います。そのように、ソドムの街は荒れ果て、すさみ切っていました。

聖書のこの箇所が伝えようとしているのは、「後ろを振り返ってはいけない」ということなのだそうです。ロトの妻が目的地まであと一歩の所で塩の柱にされたのは、後ろを振り返ったからですが、それは「ソドムの暮らしに思いがあったから」、つまり、「罪の暮らしに思いが残っていたから」なのです。聖書には、人が過去をひきずらず、前向きに生きることを勧めている箇所がいくつかあるそうです。その一つが、「ルカによる福音書」の9章61節以下で、弟子志願者に対し、イエス様が、後ろのもの(家族に別れを告げることなど、自分の事情を整理すること)を断ち切るよう勧めておられます。また、「フィリピの信徒への手紙」3章12節以下ではパウロが、キリストから賞を与えられることを目標にして、ひたすら走ることを勧めています。また、このブログのテーマにした「新しく生まれること」(「ヨハネによる福音書」3章1~15節)とも関連しているように思います。聖書が私たちに勧めているのは、卑屈な思いや恨みやわだかまりなど、悪しき思いにいつまでも囚われることなく、過去を清算して、未来に明るい希望を追い求めることなのだと思います。

しかし個人的には、ロトの妻が少し気の毒に思えたりもします。なぜなら、どんなに悪い思い出ばかりの場所、過去の生活であっても、いざ去るとなったら、心残りが生じるのではないかと思うからです。ソドムは悪徳がはびこった街でしたから、その中で生きていくことは容易ではなかったはずです。ロトたちがどの程度の暮らしをしていたかはわかりませんが、仮に人並みであったとしても、その暮らしを得るために血の滲むような努力や忍耐も必要だったと思うのです。また、隣近所の人や仕事仲間など、時には協力し合ったりした友人もいたでしょう。そして、ほとんど希望が見出せないからこそ、涙が出るほど強く感動することもあったのではないかと想像します。その暮らしに、ほんの僅か、惜しむ気持ちを抱いたロトの妻・・・。新約聖書中であれば、神様に赦されたのではないかと思いました。人の運命とは、そのように僅かな考え方や心の持ち様で、左右されてしまうものなのかもしれません。

ソドムとゴモラ・・・。ひょっとすると、現代社会も同じような様相を呈しているのかもしれません。決して飢え死にする人や経済的に貧しい人で溢れ返っているわけではないのに、本当に些細なことで喧嘩したりキレてしまう人が多かったり、幸福なはずなのに幸福と感じられない、それが私たちの現実ではないかと思うからです。幸福を分け合うことで、皆が同じように幸福を感じることが出来る、そういう自然で健全な世の中になっていけばいいのに・・・、と思います。

ソドムのための執り成し

[旧約聖書 創世記18章20~33節]

この箇所では、神様と御使いの訪問を受け、サラに子供が生まれる予告を受けたアブラハムが、彼らを見送ります。そして山の峠へ来た時、神様は、これから眼下に見えるソドムとゴモラの街を滅ぼすご計画について、アブラハムに打ち明けられます。その時、アブラハムは、それらの街の中に住む、正しい人々が救われるための「執り成し」を行ったのでした。

この箇所は教会で何度も読みましたが、最初は50人の正しい人のための執り成しで、次は45人、40人、30人、20人、10人というように、徐々に人数が減っていきます。最終的に、10人の正しい人がいれば、神様はソドムとゴモラを滅ぼさないと約束されるのですが、この「10人」というのは、「1人」と同じ意味を持つといいます。神様は、わずか1人でも正しい人がいれば、その人のために街全体を赦す約束をされたのです。

キリスト教の神様は「恵みの神様」、「愛の神様」です。旧約と新約で印象が異なるのは、人との間に結ばれた契約の違いによるものです。ですが、神様は悪や不正に対し、正しく裁く方でもあられます。実際、出エジプトの際には大勢のエジプト人を殺されていますし、ヘブライ人がカナンへ移動する途中でも、モーセに逆らう者を裁いて殺されています。少なくとも、エジプト人に対しては、「1人の正しい人」のために裁きを思いとどまる事は、なさらなかったと思います。では、私たちが信じる神様とはいったい、どんな方なのか・・・。それは、「何にも属さない方」なのだそうです。人間の中に「何にも属さない人」は存在するでしょうか?天蓋孤独で仕事も住む所も友人もいないような人を除き、家族や学校や職場など、必ず何かに所属していると思います。そうすると、どうしても身びいきになってしまうなどして、正しく物事の善悪を判断出来なくなるのではないでしょうか。ですが、神様は違います。神様は何にも属さず、何にも縛られず、唯一正しい判断のできる、絶対的に正しいお方なのです。

新約聖書の「ローマの信徒への手紙」3章10節でパウロは、「正しい者はいない。一人もいない。」と言っています。それが、私たちの現実で、パウロはその信仰によって、誰一人、神様のような存在にはなれないという思いに至ったのだ、と何かの講義で聴いたことがありますが、一方で、正しい者になるための努力を怠ってはいけない、という信仰の姿勢も大事なのだといいます。それは、イエス様の弟子として、「イエス様に似た者になる」と表現される事なのだそうです。

正しい人が一人もいないのなら、街は滅ぼされても仕方なかったわけですが、アブラハムが執り成した時点で、神様はご計画を思いとどまられています。それは、アブラハムがした「執り成しの祈り」が神様に通じたからなのです。神様が望んでおられるのは、決して人類全てを滅ぼすことではなく、人が生きて、神様の御心に叶う世の中を作っていくことなのだと思います。どうしたら、善を行う人が増えるのか・・・。それは、私たちが自分自身だけでなく、隣人のためにも祈り、罪を悔い改めて救いを求めることにより、可能になるのです。

「ルカによる福音書」の7章47節にある聖句「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とありますが、これは逆に、「人は赦されることにより、隣人を愛することができるようになる」という意味だったと思います。「赦す」から「赦される」のですし、「愛する」から「愛される」のです。私は、そこに神様が望まれている善意の連鎖があると思います。そして、隣人が救われるようにと、「執り成しの祈り」ができる人間になれれば、きっと神様は私たちに救いの道を備えてくださるのだと信じ、神様の愛を、まずは、家族や同じ教会に所属する兄弟姉妹など、身近にいる大切な人に、伝えていけるようになりたいと思います。

イサクの誕生の予告

[旧約聖書 創世記18章1~15節]

この箇所では、暑い真昼に休んでいたアブラハムの所に、3人の旅人が現れます。アブラハムは即座にその3人が神様と御使いであることに気づき、走り出て、その人たちを迎えます。そしてアブラハムは彼らに、お祭りの時にしか作らないはずのパン菓子など、最高の料理でもてなし、自ら食事の給仕をしたのでした。すると3人は、年老いたサラに男の子が生まれると告げたのです。

この箇所でまず注目すべきなのは、アブラハムが3人の旅人を見て、すぐに彼らに近寄ったことだといいます。アブラハムは、はっきりと神様から祝福の約束をいただいていましたが、サラには子供が生まれず、神の祝福らしき出来事は何も起きなかったのです。そのうち、アブラハムとサラは歳をとり、二人とも老人になっていきました。そんな中、突然現れた3人の旅人を見て、アブラハムが即座に神様と御使いだと思えたのはなぜだったのか・・・。

また、もう一つ注目すべきなのは、サラが旅人の言葉を聞いて笑ったことです。年老いて、子供など生まれるはずのない自分に、旅人は男の子が生まれると言いました。その言葉を聞いて笑ってしまうのは、至極当然のことです。ですが、サラはすぐ、「わたしは笑いませんでした」と笑ったことを否定します。それは、サラ自身が、自分の中の不信仰に気づいたからでした。この時のアブラハムは、ちょうど、イエス様がお生まれになった知らせを受けた羊飼いたちのようだといいます(ルカ2:8-21)。なぜなら、希望を見失った状態であっても、神様のご臨在を信じ、神様を求めていたからです。アブラハムは3人の旅人を手厚くもてなし、羊飼いたちは天使の言葉を信じて、すぐにベツレヘムへ向かいました。アブラハムも羊飼いたちも、共に、積極的な行動を起こしていますが、それは、信仰的に正しい人たちの姿なのだそうです。旧約聖書に登場する「羊飼い」は「貧しさ」や「信仰的な正しさ」を象徴しているとのことです。イエス・キリストの誕生をまずお祝いする、その喜ばしい出来事に招かれたのは、イスラエルの中にあってもっとも貧しく、信仰的に正しい人たちである羊飼いたちだったのです。
(参考記事:http://blog.livedoor.jp/yokoya2000/archives/7642749.html

サラは初め、不信仰の笑いを浮かべました。神様が言われた事が、あまりに現実的でなく、どう考えても無理だと思ったからです。ですが、サラの笑いは愚か者の笑いではないといいます。むしろ、信仰と不信仰との間で揺れ動くのは当然のことで、その迷いから私たちを救い出し、現実をくつがえしてくださるのが、私たちの信じる神様なのです。

誰でもそうだと思いますが、何かをする時、はっきりどうしたい、というような意思や目的があってする事は少ないのではないかと思います。もちろん、職場で与えられた仕事などは、意思とは関係なく、期日までに仕上げるのが当然ですし、目的もお給料を貰うため、というようにはっきりしています。ですが、誰からも指示されていない事を、自分の意思で行う時、必ず迷いが生じると思います。物事が出来るか出来ないかなどを予想し、出来ない確立が高ければ断念したり、出来る確立が高くても、恥ずかしいという思いや、無意味ではないかというような思いに取り付かれて躊躇したり、私たちの意思はグラついて、なかなか行動を起こすことができません。ですが、アブラハムは迷うことなく、3人の旅人をもてなしました。常に神様の御心を求めていたアブラハムには、即座に自分がなすべき事を判断し、実行に移すことが出来たのです。何かが神様の御心だと思えた時、私たちは強くなれるのかもしれません。不安に揺れ動く私たちの心を、しっかりと支えてくださる神様がいてくださるからです。そのことに感謝し、いつでも神様の御心に応えることができるよう心の準備をして、一日一日を大切に生きていきたいと思います。

※サラはサライのことで、アブラムがアブラハムと改名したのと同時に、神様のご命令で改名しています(創世記17:15)。また、その時にアブラハムは神様から、サラによってイサク(「彼は笑う」の意味)を授かることを、約束されていました。その時、アブラハムは100歳、サラは90歳でした。

契約と割礼

[旧約聖書 創世記17章1~11節]

聖書のこの箇所では、アブラムが神様から次の2つの祝福の契約を約束されます。

①アブラムに多くの子孫を与え、アブラムを諸国民の父とすること。
②アブラムとその子孫に、カナンの土地すべてを所有地として与えること。

この時、アブラムはアブラハム(「多くの者の父」の意味)という名前を神様から与えられ、それ以降、そう名乗るようになります。そしてまた、この時、契約関係のしるしとして、「割礼」の義務が課せられます。これ以降、イスラエル民族は「血のつながり」によってではなく、「神との契約関係に入ること」を条件に、正式に民として認められるようになったのです。

「割礼」については、新約聖書にも記述がありますが(コリントⅠ7:17~24、ガラテヤ5:2~6)、クリスチャンにとって、「割礼の有無は問題ではない」とはっきり述べられています。それは、キリスト教を世界中に広めるにあたって、大きな議論の的になった事柄ですが、「私たちをキリストが罪の世界から神様の祝福の下に解放してくださったことにより、必要のない事だとされるようになった」とのことです。キリストが架かってくださった十字架は、全ての人を救うためのものであり、そのためには、形式的な枠組みを乗り越える必要があったのです。今、私たちクリスチャンが受けている「洗礼」についても同様に考えられているとのことです。神様が私たちに求めておられる信仰とは、ただ儀式を経て信徒になることではなく、「キリストに愛され、キリストの愛を受け入れ、隣人と真剣に向き合って、愛の実践を行うこと」なのです。

「なぜクリスチャンになったのか」という質問をよく受けるのですが、プライベートな事について話すのに抵抗を感じる私は、いくつかの御言葉に出会い、気持ちが救われたから、というような答えをしていますが、洗礼を受けることは、自分を縛ることでもあって、それまでの生活に対するケジメであったり、どのように生きたい、というような決意でもあったと思います。また、自分はどういう人間だ、というようなアイデンティティが欲しかったというのも、理由の一つにあったと思います。ですが、このアイデンティティというものは、「選民思想」とも繋がって、民族間の争いの原因となっていることも否めないのは、歴史が証明している所だと思います。あの「ホロコースト」も、ドイツ民族のユダヤ人に対する偏見から起きたことですし(ユダヤ人はキリストを死に追いやった悪い民族だという偏見、その他)、アイデンティティを異にする人間同士間に起き得る、差別感情の恐ろしさを思います。

最後に、マザー・テレサの次の言葉を書き記したいと思います。

    *  *  *  *

 あなたがなんであり どこの国の人であろうと
 金持ちであろうと 貧乏であろうと
 それは問題ではありません。
 あなたは 同じ神さまがおつくりになった
 同じ神さまのこどもです。

    *  *  *  *

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