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シュネムの女

[旧約聖書 列王記下 4章8~37節]

シュネムという街で、預言者エリシャが起す奇跡のお話です。ここに登場するシュネムの女性は、子供が欲しいという気持ち、夫に対する不満がありながら、それを告げる事なく、エリシャを家でもてなしていたのですが、感謝の気持ちとして何かしたいと思っていたエリシャは彼女の、この隠していた不満について、従者ゲバジを通して知るのです。そこでエリシャは、彼女に子供を授け、間もなく死んでしまったその子供を生き返らせた、というお話です。

このシュネムの女性について、聖書の価値観から言えば、あまり望ましい女性ではない、という牧師先生の解説がありました。それは、悩みがあっても、それを家族のみならず、エリシャにも隠し、何不自由ない「優等生」を演じていたからです。ですが、彼女は、やっと授かった子供が死んでしまう、という出来事を通して、本当の信仰に目覚めることが出来たのです。彼女は、表面的に繕った家族内の人間関係の中で、立派な人間を演じていましたが、それは、神様の無条件の愛を信じていなかったからだったとの事です。自分でそうとは気付かずに、神様に対して不満を持っていた。神様に、自分の良い面も悪い面もさらけ出して、あるがままの自分を受け入れてもらおうとしていなかったのです。

この話は、自分自身にも相通ずるところがあって、考えさせられました。私は精神科に月1度通院していますが、「変わった事はありませんか」と問いかける医師に対して、ただ「ありません」と答えるだけなのです。相談しても、皮膚の荒れについてだったり、血液検査の結果だったり、心以外の相談事ばかりなんですよね・・・。医師はその事をどう受け止めているかわかりませんが、私がそんな感じである理由は、私が経験的に人に対し、お涙ちょうだい的な事を言ってはいけないと思い込んでいる所にあると思います。妄想について語って、再入院させられたらいけない、というのが現実的な理由でもあるのですが・・・。でも、その意識が本当の信仰を阻んでいる事に気付いているし、その基本的な事が出来ない事を気にして、受洗をためらったのも事実です。

ですが、私はクリスチャンではない、ある年上の女性に対し、離婚の理由について聞かれたので話した事があり、つい、その時の気持ちが蘇って、不覚にも泣いてしまったんです。そうしたら、相手の女性まで泣き出してしまって、私の方がビックリして・・・。その時、その女性がした話が、ハクサイから芽が出てきていたという話でした。その時、何を言っているのか、わからなかったのですが、要するに、アスファルトの隙間に生えてきたダイコンのような例え話だったのだと思います。もしかして、それって、私のイメージ・・・・?^^;二日酔いした話をしたら、「甘ったれてる」って言われましたが・・・。(≧ヘ≦) 考えてみると、私はともかく、その人は本当にシュネムの女性だったような気がします。自分の悩みについては、一切、語らない人でしたから・・・。

私達人間は神様とは違うから、隣人に対し、同情したかと思えば、次の日には、どうでも良くなったり・・・、無責任で気まぐれです。自分の事を第一に考えて、予防線を張ったり、自分を守る事に必死です。良い所は受け入れても、悪い所は拒否し、過度に頼られる事を嫌がります。だから、人間関係も上辺だけになり、それに慣れてしまうと、神様に対しても、あるいは何か救いの手を差し伸べてくれる人に対しても、心を開けなくなってしまうのではないでしょうか?他人に対しお世話するだけでなく、他人のお世話になれる人間に、これから変わっていきたいと思います。
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安息日とは・・・

---- 平成24年8月10日の「日々のみことば」メールより ----

《安息日とは》

「会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない』」。
(ルカ13:14)

 「本末転倒」という言葉があります。まさに会堂長の安息日理解は本末転倒でした。
 安息日とは何でしょう。それは人が創造主である神さまの恵みを味わい、神さまの御旨を深く知って神さまを礼拝、賛美する日です。
 元はと言えば、天地万物を創造し全ての良い物を造られた神さまが7日目に休まれたことを記念して人に与えられた日が安息日です。
 また出エジプトを経験したイスラエルからすれば、奴隷状態から解放されたことを感謝し記念する日でもありました。
 さらに新約聖書に入り、再臨によって神の国が完成する時に、私たちは永遠の安息に入ると教えられています。まさにそれは永遠の安息を指し示す日でもあります。
 こうしたことを知れば知るほど、安息日とは、神さまに愛されていることを覚えて、その恵みに応えて神を礼拝し、神さまを愛し、神の憐れみをもって人を憐れむ日であることが分かります。
 ですからイエスさまからすれば、病人が癒されたことは、この安息日にふさわしい出来事だったわけです。

 ところが、会堂長は腹を立てたのです。イエスさまは、こうした会堂長に代表される彼らに対して「偽善者たちよ」と厳しく非難しました。
自分たちの持ち物である牛やろばなら、安息日でも、飼い葉桶から解いて、水を飲ませに行くのに、なぜ、病人を病の束縛から解いてやるのがいけないのか、偽善者たちよ、と、
いつも自分の都合のいいように聖書を拾い読みし、解釈し、自分は変わらずに人を動かそうとする、まさに口先だけの、人々に対して、主は憤って「偽善者よ」と非難したのです。

 私たちはともすると神さまよりも厳格になることがありませんか?律法は神と人を愛することが目的であることを忘れていませんか?

三浦綾子さんの『氷点』を読んで・・・

娘を殺害した犯人の子供を妻にこっそり育てさせた夫、そうとは知らずに育てた後にその事を知る妻、なぜ母親に冷たくされるのか分からずに苦しむ犯人の子供・・・。

夫には罪を犯した理由がありました。妻が夫以外の男性と恋仲になった事への恨みでした。妻にも罪を犯した理由がありました。実の子供の代わりと思って育てた子供が、恨むべき殺人犯の子供であったからです。それとは対照的に、母親からどんなに冷たい仕打ちを受けても、恨みから、自分の心がひねくれる事のないよう、必死に前向きに明るく生きようとする、無垢な陽子。でも、殺人犯の子供だと知る事によって、陽子は生きる希望を失うのです・・・。

解説によると、この小説のテーマは「原罪」なのだそうですね。「原罪」とは、「キリスト教の教理の一つで、アダムの堕罪の結果、その子孫である全人類に生まれながら負わされた罪」なのだそうです。陽子は自殺をする前、遺書に「一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があった」と書き、両親に「ゆるし」を求めています。何の罪もないと思われた陽子の中にも「原罪」が存在したと、この小説は語っているのです。

もし私が陽子だったら・・・。陽子ほど苦しむだろうか?と疑問に思いました。なぜ、作者は陽子を、そこまで完全な人格を持つ少女に描いたのだろうか?読者のほとんどが、陽子ではなく、殺人犯の子供だからといって差別する人間の方を責めるのではないか、と思いました。でも、「原罪」を証明するために、この小説内では、陽子は無垢で純粋である必要があったのでしょうね・・・。

ただ、この小説内の登場人物は、それぞれに自分の中の悪しき心と葛藤し、苦しんでいるから、ゆるす気持ちになれると思うんですね。神様もおそらく、それを人間に望んでおられるのでしょう。「私にも原罪があった、悲しむべきことだ」と開き直るなら、聖書を読む意味などないように思います。母親からの冷たい仕打ちを受けて、ゆがんでしまいそうな心と必死に闘った陽子のようでないといけないのではないかなぁ、と思うのです。潔癖なまでの陽子について、もし父親が殺人犯でなくても、何の問題もなく育っても、同じように苦しむ人間なのかもしれない、と書かれている箇所がありますが、本当にそうだと思います。苦しむ事は損だし、自分には何も責められる点などないと思って生きられたら、その方がいいですよね。でも、真理を追究するクリスチャンなら、自分の中の原罪と向き合って、悩んで生きなければいけないのではないでしょうか?そんな事を思いました。
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