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サタンの誘惑について

[新約聖書 ルカによる福音書 22章31~38節]

最後の晩餐において、イエス様がペトロに「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と予言されたことに関して、書かれた個所です。ペトロは意に反して、イエス様を裏切り、信仰を忘れてつまづいてしまいますが、その背後にはサタンによる誘惑があった事を、知っておかなければならないのです。

サタンはイエス様がヨハネから洗礼を受けられた後、荒野で3つの挑戦的な誘惑を、イエス様に対して掛けます。一つ目は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。ここで出てくる「パン」とは、「モノ、物質、お金」のことです。二つ目に、イエス様自身が王様になって、この世の全てを手に入れたらどうか、という誘惑、3つ目に、「神の子なら、ここ(神殿の屋根)から飛び降りたらどうだ」と誘惑します。自分が一番偉くなりたいという願望はないのかと探り、メシアとしての名誉心や権力欲があるだろう、とイエス様を試したのです。しかし、イエス様はその3つの誘惑全てを退けられました。そして、サタンに勝利されました。

しかし、イエス様がサタンの誘惑を退ける事が出来た背景には、すでにイエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉を神様から受けられ、「神様にしか埋めることの出来ない心の隙間」を満たす事が出来ていたからなのです。

イエス様は三位一体の神様の一つとして栄光を放たれていますが、「人の子」として、人の心を持ったお方であり、私たちと同じ苦しみを持っておられた、という所が、重要なのではないかと思います。イエス様はサタンに勝利されましたが、もし、「神様にしか埋めることの出来ない心の隙間」が満たされていなかったならば、果たしてサタンに勝利する事が出来たでしょうか?もし、満たされていなければ、その隙間を何か他のもの、メシアとしての優越感や権力欲といったようなもので、埋めようとされたりはしなかったでしょうか?悪魔は私達の心の中に、付け入る隙、罪の根っこ、弱さや影の部分を探して、そこへ忍び寄って来るのです。心の深い所に淋しさや空しさがあるならば、そこを神様の愛で満たしていただく事が大切だとレジュメにあります。傷や憤りがあるならば、その事を神様に受け止め、癒していただく事が大切なのだと思います。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(ペトロⅠ5:8~9)

神様の愛に満たされ、サタンの誘惑を退ける事ができれば、人の心は幸福になり、自由になれるのだと思います。
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キリスト教と仏教との比較 PARTⅡ

認めたい真理、認めたくない真理ってあると思うけれど、認めたくない真理を受け止めることで、自分が向うべき道筋が見えて来ると思います。今、私は教会が主催している「般若心経の空とキリストにある空」というセミナーに出席していますが(全4回)、キリスト教と仏教の違いは、「神」という存在があるかないか、なんですよね・・・。聖書の中で、イエス・キリストは「私は有る」と言われています。「私は有る」と言えるのは、神様だと言っているのと同じ事です。では、私達人間は「有る」ではないのか?そうなんですよね・・・。私達は神様によって生かされてはいるけれど、行き着くところは、「諸行無常」や「諸法無我」や「空」の境地なんです。要するに、信仰を深めれば深めるほど、この世に変わらず存在し、信じるべきものは、何もないという所に辿り着くのです。その事に気付くのが、仏道の「悟り」であり、キリスト教の信仰の結果でもあるのです。そして、それを穏やかな心で受け止められた時、はじめて本当の意味での「平安」が、訪れるのではないでしょうか?しかも、キリスト教の場合、変わらずに存在する、絶対的なお方が側にいてくださるのです。

だから、信仰は無駄な事ではないのです。イエス様が見本として示されたように、真実から目をそらさず、十字架を背負って生きていこうではありませんか?本物の平安を得た時、そこに、信仰者としての勝利があると思います。

偉さの基準

[新約聖書 ルカによる福音書22章24~30節]

この箇所は、最後の晩餐の席上で起こった議論について語られています。今も昔も変わらず、人の関心事は自分の価値がどの位であるか、他人より上か下か、なのですよね・・・。それが、全ての人間間の争いや不和の原因になっていると言っても過言ではないほど。その事をよく分かっていない間は、自分が仕事が出来なくて役に立たないから認めてもらえないのだ、と自分を卑下して落ち込んでしまうと思うのですが、実はそれだけが原因ではないと思います。実は他の何かが相手の脅威になっていたり、敵とされるだけの何か要素を持っている事が多いと思います。それに気付く事は、すごく辛い事ですけど、それを乗り越える強さを持たなければいけないんですよね。そして、この世は勝った時だけ賞賛を得て、負ければ、意地の悪い微笑みと表面だけの励ましを得るだけなんですよね・・・。

でも、キリスト教の神様の価値基準は、この世の価値基準と真逆なのだそうです。その事が、次の聖書箇所にはっきりと示されていると思います。

「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)

最も小さい者、弱い者、未熟な者に仕える事は、私達人間が生まれながらに持つ感覚によって、不可能な事だと思います。それと同時に、少しでも優位な立場に居たい、という感覚もあると思うので、生来の気質を補うかのように、知識や技術や社交術を身に付け、自分自身を武装しようとするのですよね・・・。その事を神様はどう考えておられるのでしょうか?神様はあえて、私達に「欠け」を持たされた。キリスト教の価値観からすると、誰もが持ち、正当化している上下関係を作る基準こそ、その不完全さが生み出したものなのだと思います。

でも、私達には、敗者や傷付いた人へのいたわりという感情が、多かれ少なかれ、備わっているんですよね。ただ、お金で苦労した人は貧しい人に対して、人間関係で苦労した人はそういう人に対して、いたわりの気持ちを持つという傾向があるだけではないでしょうか?私は、その感情こそが、神様が「欠け」と一緒に、私達に植え付けられた、尊い性質なのだと思います。そして、その感情こそが、神の国にとって、欠かせないものなのだと思います。

人を見下したり、逆に自分に対して劣等感を抱いたりする事が極力少ないような、理想の社会が実現するといいですね・・・。

キリスト教と仏教との比較

昨日は教会でバザーがあり、その後、東京基督教大学の大和昌平教授によるセミナーがありました。セミナーは「般若心経の空とキリストにある空」と題して、2時間ずつ4回に分けて行われます。私は少し仏教にも関心があり、知人や各種セミナーを通じて、かじったりもしていたので、この講義は是非とも受けたいものでした。

そして第1回である昨日は、最も基本的なキリスト教と仏教の比較に関しての講義でした。一言で何が違うかといえば、キリスト教は神を信じる宗教であって、仏教は悟りを得た人を信じる宗教であるということ。イエス・キリストは亡くなった人であるから、仏教の祖先崇拝と共通する部分はあると思うのですが、私達信者は、イエス・キリストに似た者にはなれても、イエス・キリストそのものにはなれない、というように理解しました。パウロでさえ、信仰が深まるにつれ、神には到底なれない、というような気持ちを抱いていたそうですね。どんなに真理を理解しても、自ら神であると名乗らない、名乗れないというあたりは、仏教の、相互依存の概念、自分ひとりの力で存在しているのではない、自然界にあって、自分は取るに足らない存在であるという謙虚な考え方にも通じると思いました。それでも、仏教では人間がブッダ(目覚めた人、完成者の意味、仏)になれて、キリスト教では絶対になれないという部分は、僅かな違いのようで、大きな違いなのかな、とは思いました。現在のネパール付近に存在した釈迦族の皇太子であったお釈迦様が、仏道を志したその動機は、人間の苦しみである「生老病死」を目の当たりにして、それを何とかしたい、と思ったところにあったようですね。仏教では「愛」は欲望として捉えるようですが、「慈悲」というものは、キリスト教の「アガペ(愛)」に非常に近いものと捉えられているそうです。たしかに、愛欲と慈悲は異なるように思います。「愛欲」は、誰か人の心を独占したいというような気持ちも含まれ、我がままで、闘争的です。そして、一旦手に入ってしまうと、嘘のように簡単に消えてしまうような刹那的なものでもあると思います。でも、「慈悲」や「アガペ(愛)」は、人が家族に対して持つように、相手の幸福を心から願う、穏やかではあるけれども、深い愛情だと思うのです。他、仏教の五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)と聖書の十戒の違いについても説明がありました。第一戒から第五戒まで(主に、神様のみを敬う事を定めたもの)がキリスト教にだけあって、第六戒から第十戒まで(主に隣人との間で慎むべきこと)は仏教にもキリスト教にも共通している戒めなんですよね。私も聖書を学びながら感じていましたが、仏教は主に隣人との関係の中で真理を見つけて行く宗教で、キリスト教は、隣人との関係に加え、神様との関係の中で真理を見つけて行く宗教なのだと思うのです。神様の価値観は、人間の価値観と明らかに異なる部分があると思います。どこか、貧しい人、病人、罪人を優位に位置づけるようなところです。仏教でも「慈悲」の教えがありますが、キリスト教は、これを第一とし、私達に強いるようなところを感じるんです。これは、微妙であって、大きく違うところ、ではないかと思います。そして、求道者や信者がとまどってしまう部分ではないかと思います。「慈悲」の実践は、自分が優位でいられるけれど、「アガペ」の実践は、むしろ、自分の身を低くすることで行える、そんな違いのように思います。そして、この世にあって、それを完全に行えたのはイエス・キリストのみだったんですよね。イエス様をどんなに慕い、似た者になろうとしても、私達人間には限界があると思います。でも、私は個人的に、不完全ではあっても、その信者としての試みを、続けていく事に意味があるのではないかと思います。それが、神様の御心に適う生き方なのではないかと、思います。クリスチャンになったこと、キリスト教を生涯の宗教として選んだ事は、間違いでなかったと、講義を聴いて、思います。
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