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アドベントの本当の意味

[新約聖書 ルカによる福音書21章25~36節]

11月30日の「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約4週間を「アドベント」(待降節または降臨節)と呼び、イエス・キリストの再臨を待ち望む期間とされています。

他のサイトの記述を引用させていただくと、

「キリスト教徒にとって“イエスの再臨”は、きわめて重要な意味を持っています。キリスト教徒の信仰は、まさにイエスの再臨を信じることによって維持されてきたと言えます。クリスチャンにとって、イエスの再臨は最終的な希望なのです。

しかしその再臨については、さまざまな考え方・とらえ方があります。ある者は、聖書の文字どおりイエスが空中に聖徒を従えてやってくると考えています。またある者は、イエスは人間として生まれ、その際、手足にクギの跡を持って誕生すると言います。またあるクリスチャンは、再臨するのはかつてのイエスではなく、同じ使命を持った別の人物が再臨のメシアとして地上に現れると考えています。そして、それぞれの見解の正当性を神学的論拠に基づき主張しています。」

との事です。

ですが、「再臨」の本当の意味は、「スピリチュアリズムによってもたらされた『霊的真理』こそが、まさにキリストの再臨の実態そのものなのです。」また、「利己主義に支配されてきた暗黒の地球が消滅し、霊的真理によって明るい“霊的光”に包まれた地球に生まれ変わることが終末の本当の意味だったのです。」

と、そのサイト(http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-9/sp-thought1-9-4.htm)には書かれています。

プロテスタントである、私の通っている「カンバーランド長老キリスト教会」でも、「再臨」の時を、「人の喜びを私の喜びと出来るような、あるいは、受けるより与える方が幸いである、と心底思えるような私に変えられる瞬間。神の国が到来する時」と表現しています。

「再臨」の意味する本当のものは、私たちが心の思い煩いから解放されて、永遠の心の平安を手にする瞬間なのだと思います。

この聖書箇所でイエス様は、放縦や深酒をやめるようにと言われています。放縦も深酒も、一時の快楽や陶酔によって、心の苦しみから解放されようとして、行う事がよくあると思います。でも、根本的に心の問題が解決されていないと、それらの行為によって真の平安を得る事はできず、むしろ、自分の評判を落すなど、マイナスの結果を招き、さらに苦しむ事になってしまうと思います。

私たちクリスチャンは、最終的には天に招き入れられる幸いにあずかっています。主の再臨があった時、身を起し、恥ずかしくない姿で主の前に立つことが出来るよう、今のうちから真摯に、御言葉に生きる者でありたいです。
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「古い人」から「新しい人」へ

[新約聖書 エフェソの信徒への手紙 4章17~24節]

エフェソ書は4章から、キリスト者の実際生活について教えているそうです。「クリスチャンになる以前の生き方」をしている人を「古い人」と表現し、その生き方から決別して「新しい人」となるよう、勧めています。

実際、教会に通ってみて思うのは、イエス様やマリア様のような、慈愛に満ちた優しい人達が意外に少ない事です。教会に行きたくても(居場所がなくて)行けない人が大勢居る、と口々に言われるのが、どうやら現実のようなのです。

これは、あくまで私個人が思う事ですが、キリスト教は、「性悪説」だと思うんですよね。人類は「原罪」を持って生きていて、キリスト教は決して、罪を罰したり、罪人を裁いたりする宗教ではないんですよね。イエス様が現れるまでは、「律法(業)の契約」によって、人間は、死によって罰せられるという恐怖と背中合わせでした。ですが、イエス・キリストの出現によって、神と人間が「和解」し、「恵みの契約」によって、愛を伴った人格的なつながりを持つ事ができたんです。(H・W・マロウ著 『恵みの契約』より)

聖書を読んで、御言葉通りには生きられない事(罪)を自覚すればいいと聞き、クリスチャンになる決意が出来ましたが、罪深い人間達を、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」の精神で救いに導く、イエス様と似た者になるという信仰が、あまりに過酷で、自分自身にとって意味のある事なのか、と思ってしまうのが、正直なところです。

「エフェソの信徒への手紙」で書かれている「古い人」とは、人が傷ついても、憐れむ事ができず、恵みに対しても感謝がないような人なのだそうです。その結果、罪に対して鈍感になると、レジュメに書かれています。でも、イエス様は自らの命を犠牲にしてまで、そのような人達への愛を貫かれました。そして、そうする事により全人類の罪を購う事が、イエス様の、この世に人としてお生まれになった理由だったのです。

ちょっと、こういう事を考えていると、精神的に疲れてきます。。私はイエス様やマザー・テレサを立派な人だと心から尊敬する一方で、絶対にそんな風にはなれない、なりたくもないと思ってしまう、やっぱり多くの罪人の一人なのだと思います・・・。
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