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預言者エリシャの死

[旧約聖書 列王記下13章14~21節]

エリシャの危篤の知らせを聞きつけて、イスラエルの王様ヨアシュがやって来る場面です。ヨアシュは死の床に臥しているエリシャのそばに近寄り、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣き叫びます。「イスラエルの戦車」や「騎兵」というのは、エリシャの事を指しています。それほど、エリシャには、王を支えるだけの力があったのです。その彼が、死の病によって、ヨアシュから取り去られようとしていたのでした。

そのヨアシュに対しエリシャは、矢を持ってきて、目の前で射るように命じます。王は三度地面を射ましたが、その王に向かいエリシャは「五度、六度と射るべきであった」と言って嘆きます。それは、王がその後、三度しか敵のアラムを打ち破る事が出来ない事を意味していたからです。

エリシャは、彼に依存していたヨアシュを自立させたいと願っていました。エリシャは、大切な信仰のバトンをイスラエルの指導者ヨアシュに託そうとしたのです。ですが、エリシャが臨終の床で伝えようとした信仰の姿勢を、ヨアシュは自分のものとする事ができませんでした。つまり、「勝利の矢」を受け継ぐことが出来なかったのです。

教会での交わりにおいて感じる事があります。それは、「頼る側」と「頼られる側」に分かれる傾向がある、という事です。ある一人の姉妹は「頼る側」のよい例だったと思います。お互いの悩みを聞いたりして励まし合うのではなく、一方的に、自分が頼ろうとし、頼れる相手を見つけては、その人に依存するのです。頼られた側は、悪い気はしないでしょう。でも、たぶん、頼られる存在で居続けなければならない、というプレッシャーを感じ、場合によっては「負担」と感じてしまうのではないかと思います。

神様に全てを委ねて生きるのが、キリスト教の信仰だと教わります。ですが、他の力に依存して生きる事には限界がある事に気付かされると思います。大人になるという事は、親や先生や、大きな存在への依存から抜け出る事なのではないかと、個人的には思って来ました。ですが、そのような姿勢が、他の力に頼って生きる、という生き方が出来ないようにしてしまいます。むしろ、他の力を当てにせず、自分の力だけを信じるようになってしまうからです。

ですが、最近になって、神様の御心とは、何の努力もせず、神様や隣人を頼る事ではないと思うようになりました。神様はヨアシュに、エリシャへの依存から抜け出る事を望まれていたのです。エリシャを通して神様と繋がるのではなく、ヨアシュ自らが神様と繋がり、福音のバトンである「勝利の矢」を受け継ぐ事を望まれたのです。

神様は聖霊様を通し、私達に働きかけ、イエス様に似た者へとなれるようにしてくださいます。イエス様を信じる事は、イエス様に依存する事ではないと思います。イエス様は万能でありながら、包容力があって、お優しい方だったでしょう。ですが、誰かをイエス様と重ねて、その人に頼り切る事が神様の御心ではないのだと思います。自分自身で神様に繋がり、神様からいただいた賜物を用いて、主に仕える生き方をしていきたいと思います。
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復活についての問答

[新約聖書 ルカによる福音書20章27~40節]

この箇所では、復活を信じないサドカイ派の人々が、イエス様に対し、議論をしかけます。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」という、モーセの律法の掟を引き合いに、もし7人兄弟がいて、7人とも子を残さなかった場合、全員の妻になった女は、復活の時、誰の妻になるのか、という質問でした。すなわち、神の掟は、一人の女性が同時に何人もの夫を持つことをよしとしていない以上、復活があるなら、神の掟の中に矛盾が生じてしまうではないか、という理屈でした。イエス様はこれに対し、復活する人は天使に等しい人だから、復活後にめとる事も嫁ぐ事もない、とお答えになります。

ですが、この箇所で聖書が問題にしているのは、復活があるかないかではなく、イエス様は知識と律法の遵守という、血の通っていない非人間的な信仰を、人間的で「生き生きとした信仰」へとよみがえらせるために戦われた、という事なのです。37節、38節には、こうあります。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」神はいつでも、生きている者の神であり続ける方だから、たとえ死んだ者であっても、神はそれをご自身の前に復活させ、生きた者とされる、というのです。

この事は、神様がお造りになった私たちにとって、無駄なことなど、一切ないという事を伝えています。孤独も、病気も、不幸も、悩みも、痛みも、一切が、神様の御前では無駄な事ではなく、すべてが命を帯び、意味あるものとして輝きを持つのです。

神様は、ご自分が「ある」とおっしゃいました。この事は、キリスト教を特徴づけるものだと、昨年受講した教会のセミナーで教わりましたが、その神様の一言が、罪と死の奴隷となっている私達人間にとって、唯一の救いとなっている、というお話でした。バベルの塔を建てるように、人間は自らの力を試して生き、最終的には自らが神になり代わろうとします。それは、人間の最も犯してはならない罪です。ですが、すべては無駄で意味のない事だと思い、絶望的になっている事を、神様は望んではおられないと思うのです。神様から希望をいただき、御心に従って歩んで行けるようでありたいと思います。

司令官ナアマン

[旧約聖書 列王記下5章1~14節]

ナアマンは、イスラエルの隣国アラムの軍隊の司令官でした。彼はアラムの王ベン・ハダドから重んじられた存在でしたが、その彼が、重い皮膚病を患ってしまったのです。そこに、捕虜としてイスラエルから連れて来られた一人の少女が現れ、イスラエルにエリシャという預言者がいて、彼の皮膚病を治してくれるだろうと、彼の妻を介して伝えたのです。ナアマンは、藁をも掴む思いで、その少女の言葉を信じ、イスラエルの王に会いますが、王に取り合ってもらえません。その事を聞きつけたエリシャは、ナアマンを呼び寄せますが、自ら彼の元へは赴かず、使いの者によって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」というメッセージを伝えただけでした。気を悪くしたナアマンは憤慨しながら去ろうとしますが、彼の家来たちが勇気を出してナアマンを説得し、彼にヨルダン川で七度身を洗う事を試させる事ができました。すると、ナアマンの体は元に戻り、小さい子供のようになり、清くなったのです。

ここの箇所では、神様を信じるためには、自分のプライドを捨て、謙虚な姿勢で全てを神様にお委ねする事が大切だと説いています。ナアマンは、金品や自分の肩書き、権力によって、イスラエルの王から丁重にもてなされ、預言者エリシャ自らによって、皮膚病が癒されるというシナリオを描いてイスラエルを訪問しましたが、実際には王に取り合ってもらえず、エリシャにも直接会う事ができませんでした。しかも、エリシャから受け取ったメッセージは、川で体を七度洗うという、単純極まる行為の実践の勧めだったのです。ナアマンは、その事によりプライドを傷付けられ、エリシャの言葉も信じようとしませんでした。ですが、プライドを捨て、預言者の言葉を信じる事により、彼の病は癒されたのです。

このような事は、私達の人間関係にも見られる、信頼関係構築の難しさを表していると思います。信仰を始めるにあたって、教義が自分の価値観に合わないと思い、とまどうのもそうですし、職場の上司の命令に素直に従えなかったりして、信頼関係を損ねてしまうのも、そうだと思います。親との関係、恋人との関係、先輩との関係、医師との関係、あらゆる場面で、自分のプライドを捨てて信じるかどうかを、試されるのです。人間不信になり、自己防衛するのみになると、もう、その人には孤独や安全以外、なくなってしまうと思います。それが嫌なら、どこかで傷付く事を覚悟し、相手を信頼するという選択をしなければならなくなると思います。人は罪人ですから、その信頼を裏切る事もあるわけですが、神様は違います。神様は最善をなしてくださるお方で、仮に今、聖書に書かれている事が最善だと思えなくても、信じて実行すれば、必ず私達を最善の方向へと導いてくださるのです。

ナアマンをいさめた家来たちは、教会の兄弟姉妹を表しているそうです。私達は、とまどいながら、兄弟姉妹達に助けられて、神様の導きに従っていく幸いに預かっているのです。その事に、心から感謝したいと思います。

「ぶどう園と農夫」のたとえ

[新約聖書 ルカによる福音書 20章9~19節]

このたとえ話は、イエス様が地上のご生涯においてなさった最後のたとえ話です。ぶどう園の主人が旅行先から収穫の季節に、次々に僕を送りますが、いずれも侮辱されて追い返され、最後に主人の跡取り息子を送ったところ、殺されてしまうというお話です。

このたとえ話に出てくる主人とは神様、次々に送られた僕は預言者達、最後に殺された跡取り息子はイエス様、農夫たちはイスラエルの民を表しているそうです。死を覚悟されたイエス様の心境が、この話の中に、よく現れていると思います。

17節と18節はとても難解に思いますが、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」というのは、救い主であるイエス様が殺されるという「あってはならないこと」が、私達の救いのために「なくてはならないこと」に変えられた、という事を意味しているそうです。

私達は弱い存在でありながら、好き勝手に生きたいと願い、神様の事を忘れがちです。自分の力で、自分のために生きようとしてしまいます。それが、神様への反逆とは気付かずに・・・。私達は自分が家庭や職場、自分の人生の主人になろうとして、神様になり代わろうとしているのです。その事が、主人の留守中に農地を主人から奪い取ろうとする民の行動として、この聖書箇所に描かれています。

イエス様は、そんな我がまま勝手な私達を救うために、十字架に架かってくださいました。でも、この事を軽く考えたり、イスラエルの民衆がそうであったように、愚かだと罵ったりしてはいけないのです。犠牲は時として、嘲笑の的となったりします。でもそれは、私達の心が、悪魔に支配されているからだと思います。イエス様の尊い犠牲に涙し、悔い改める時はじめて、胸を張って、クリスチャンは、クリスチャンだと言う事が出来るのではないでしょうか。

エリアとエリシャ

[新約聖書 列王記下4章38~44節]

エリアとエリシャは列王記に登場して来る、二人の預言者です。エリアはバアル信仰によって北イスラエルの民を惑わせるイゼベルと対決し、勝利を治めた偉大な英雄で、エリシャは神様の召命を受けて、エリアから預言者の座を譲り受けた、「愛の共同体」のリーダーです。一言で表現すると、エリアはワンマンタイプ、エリシャはチームリーダー的だったと言います。

列王記のこの箇所ではエリシャについて書かれていますが、「裁く心」がなく、「他の人との分かち合い」をする人として描かれています。エリシャは「自分ひとりが勝つのではなく、皆がいい思いをするように分かち合っていく時、そこに大きな満足が起こる」という事実を、実際に起してみせた人だったのです。エリシャは自分自身に深い満足を経験していたと言います。彼は、本当に知っていただきたいお方(神様)に自分を知っていただいていましたから、他の人の前で自分の力を証明する必要がなかったのです。ですから、いつも穏やかで、人々に対して寛容で、優しかったのだと思います。

エリアタイプの良さ、エリシャタイプの良さ、それぞれにあると思いますが、安心して仕事が出来るのは、エリシャタイプのリーダーの元かもしれませんね。エリアのように闘争的なリーダーは、有能な人にとっては刺激的でいいかもしれませんが、自信のない人にとっては、ただ畏れをいだく存在になると思います。実際は、両方の要素が交じり合っている事が多いと思いますし、それが理想の状態のように思います。少し前、部活動の体罰が問題になりましたが、生徒の性格も一人ひとり違うだろうし、厳しさがないと最大限に力が発揮出来ないだろうから、難しいですよね。そこに生徒への「愛」があるかどうかで、大きく違って来るのではないでしょうか?

以下はレジュメからの引用です。
「なぜ、私たちは人に優しく出来ないのでしょうか。それは、優しい心になっていないからです。逆に自分が優しさを求めているからです。なぜ、人を褒める事ができないのでしょうか。それは、私こそ褒めて欲しいと願っているからです。そうした全ての思いを、主の御前に差し出す時に、主はかならず恵みをくださいます。」
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