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死んで、生きよ

[新約聖書 ヨハネによる福音書3章1~15節]
[新約聖書 ヨハネによる福音書3章20~26節]

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)

3節の聖句は、ファリサイ派のニコデモという人が、ユダヤ社会の指導的立場であったにも関わらず、イエス様を預言者として認め、教え請いにやって来た時に、イエス様がおっしゃった御言葉です。この御言葉は、洗礼の本質が「再生」、つまり「生まれ変わること」であることを、はっきりと言い表しています。また、その事は、5節の「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」という御言葉からも知ることができます。

私たちは母の胎から生まれますが、肉から生まれた者は肉でしかありません。神の子として生き始めるためには、再び霊から生まれなければならないのです。

「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ3:6)

肉の苦しみを持っている、肉から生まれた私たちは、「敵を愛しなさい」「右の頬を打たれれば左の頬を出しなさい」など、聖書の教えを素直に聞き入れることが、なかなかできないと思います。敵があっても、味方を愛せる人はまだいいです。味方さえ、妻や夫や親や子供さえ、信頼し、愛することが出来ない人も多いのではないでしょうか。そして、それを境遇や性格や価値観の違いによると理解し、心を通わせられる相手さえも、遠ざけてしまうのだと思います。

同じくヨハネによる福音書3章の20~25節に次のような聖句があります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」

他人に対し心を閉ざし、自分のみを愛している状態では、儀式として洗礼を受けても、本当の意味で神の子として生まれ変わった事にはならないのではないでしょうか。自分を殺すこと、それまで自分を支えて来たものを捨てること、古い自分と決別することによって、はじめて、聖書の教えを自分のものとして、吸収することが出来るようになるのではないかという気がします。

この記事は、FEBC(キリスト教放送局)が発行する機関紙を参考にして書かせていただきましたが、その中で岩島忠彦神父はこう書かれています。

「キリスト教の信仰を自分の信仰とするという思いが自分の中に生まれてこなければ、洗礼を受けるべきではないと思います。・・・(省略)・・・イエス・キリストを信じるということを実際に自分の生き方の中心にしようとすることです。その上で、人には限界があります。・・・(省略)・・・しかし、クリスチャンになるということは、こういう目標を設定し、それを見つめて生きるということが大切なんです。」

実は、キリスト教に入門した当初、教会の牧師先生から説教を聴いて印象深かったのが、ニコデモとイエス様とのやり取りの場面でした。それで、ブログのテーマは「Be Born Again」にしたのを思い出しました。その頃はまだ、洗礼も受けていませんでしたが、本当の意味で生まれ変われる日が来るよう、目標を見失わないように、信仰生活を続けて行きたいと思います。
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賢く生きるとは

[新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章15~17節]

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

私たちクリスチャンは、天に国籍のある者として、神の国の市民として生かされています。また、聖書は「死は天国への門である」と教えます。つまり、永遠という広がりで物事を考え、天に宝を積む生き方をするように、と教えているのです。

パウロが言う「愚かな者」とは、私たちが通常言うように、生き方が下手だったり、無分別だったりする人の事を言っているのではありません。あくまで、神様の目から見て「賢い」のか、「愚か」であるのかが問題なのです。神様の目から見た「愚かな者」とは、天に国籍がある事をすっかり忘れ、地上で得をすることばかり考えて振舞っている人の事です。神様の御心に反する行いをしてこの地上で勝利者となっても、その人は神様の目から見て、「愚かな者」なのです。

同じ聖書を読んでいるのに、所属する団体によっても、人によっても、信じるものが違うように思います。聖書は全ての人類を救うことが目的だからか、一部の人たちにとって都合のいいようには書かれていないと思います。最近知ったので詳しい事は知りませんが、1993年にアメリカのテキサス州ウェイコでFBIと銃撃戦をしたうえ80人が自殺したブランチ・ダビディアンという新興宗教などは、ヨハネの黙示録を信じる教団で、キリスト教(プロテスタント)系といっても、今居る教会の人たちとは、全く信じているものが異なると思います。実際、神様の裁きとはどのようなもので、天国への門とは、どの位の広さがあるものなのでしょう?自分でその幅を広げたり狭めたりできないから、所属する団体を選ぶしか、方法がないのでしょうか?

聖句の中の「時をよく用いなさい」とは、「カイロス(神様の特別な時)」を「エクスアゴラゾー(買い占める)」という意味だそうです。私たちは、日々の生活で起こるさまざまな出来事を、信仰を学ぶ良い機会として、買い占めるべきなのです。神様からのメッセージは聖書の中にしかないと思います。神様は私たちの祈りは聴いてくださいますが、御心を知るには、日常の中から手探りして知るしかありませんよね。ですが、与えられた時や場所の中で、一人ひとりがキリストを深く知る者へと作り変えられることを通して、神の国は実現していくのだと、信じたいと思います。

光の子として生きる

[新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章6~14節]

「福音」という言葉がありますが、キリスト教では、光の中に入れられる事を意味しているそうです。イエス・キリストの福音は、私たちの心の中が闇であることを明らかにし、その上で、イエス・キリストにあって、私たちが光の世界を体験していくようにと導きます。キリストを自らの内に受け入れ、信じることによって、私たちの心の中に光が差し、私たちの存在そのものが光の子となり、私たち自身が輝き出すのです。

パウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5:6-9)」と言いました。この言葉は、パウロの実体験から出た言葉だと思います。パウロは復活のキリストと出会う前、シリアのダマスカスにある教会を迫害するために、道を進んでいました。しかし、キリストに出会って、あまりの輝きに目の前が真っ暗になり、自分自身が闇であることに気付き、主の導きの中で祈ってもらううち、目から鱗のようなものが取れたといいます。まさに、その瞬間、光の中を歩む者へと変えられたのです。

ファリサイ派や律法学者たちは、誰よりも戒律を立派に守り、自分たちは光の中にいると思っていましたが、イエス様が現れることによって、その存在が闇であり、偽善者であることが明らかになったのです。

光と闇の対比は、旧約でも新約でも、共通のテーマなのだそうです。マザー・テレサの祈りの中にも、「闇あるところに光を」という表現があります。普段、普通に生活している時、罪の意識を心に感じる人は、あまり居ないのではないかと思います。しかし、難しい人間関係や競争といったものの中に身を置くと、たちまち闇の中に居るような状態になり、それまで感じることのなかった苦しみを経験するのではないでしょうか?だから、私たちは闇が好きではないのです。闇が怖いのです。晴れ渡る空や大地、そこに健やかに生きる動植物を見ると癒されるのは、それらが、心の中を光で満たしてくれるからではないかと思います。ですが、自分自身が光になろうとする努力をしているでしょうか?人間関係においても、イエス様のように光を放っている人は好かれ、そうでない人からは、人が離れていく傾向があると思います。そしてまた、光だと思っていた人が闇を抱え持っていることに気付いて、うろたえたり・・・、そんな事を繰り返しているのが私たちのような気がします。

イエス様は誰の目にも明らかな闇である人たちには優しく、偽善者たち、つまり、一見光に見える人たちには厳しかったといいます。こう聞くと、それでは、いつも暗い顔をして不平不満ばかりを口にしていればいいのかと思いがちだと思いますが、そうではないのだと思います。光となる、つまり光の子として生きる事と、表面だけ明朗闊達で完璧に装う事とは、同じではないのです。

隠している罪、自分で正当化して抱え込んでいる罪は、キリスト教的には、悪質な罪だそうです。けれども、その罪をイエス様に明け渡していく時、それは恵みへと変えられていくのです。「光の子として生きる」とは、福音の光に照らされて、神様に自分を明け渡していく生き方です。そして、そうする事によって、自分自身の心が光に照らされ、今度は私たち自身が他の誰かを光で照らす事ができる、そういう存在になれるのだと思います。

真の救い主とは・・・

[新約聖書 ルカ20章41節~21章4節]
[新約聖書 マタイによる福音書21章1~11節]

イエス様がお生まれになった時代、ユダヤの人々は、ローマの支配下にある自国がもう一度、メシアの手によってダビデ時代の繁栄を取り戻す事を願い、メシアはそういう働きをするのだと期待していました。事実、イエス様はダビデの血を引くダビデの子孫なので、その通りの事が起きようとしていました。ですが、イエス様は、ユダヤの人々が考えていたようなメシアのイメージとは異なる、救い主の姿を人々の前に見せられたのです。

エルサレムに入城された時の事です。イエス様は弟子達に命じて、ろばの子を連れて来させます。それは、ご自分が入城する際に乗るためでした。そしてそれは、ろばの子に乗るメシアの姿こそが、神様が備えられた本当の救い主メシアに最もふさわしい姿である事を伝えています。当時の人々に限らず、現代に生きる私達も、メシアとは勇ましい軍馬にまたがって入場するような存在だと考えてしまうと思います。ですが、本当の意味で、私達人間を救えるのは、そのように遜った、柔和で優しいお方なのです。

私達は誰しも、愚かな部分を持っていると思います。権力によって支配される事を嫌がりながら、自分と同じ、または劣る存在に支配されるよりは、自分を完全に負かしてくれる存在に支配される事を望むのです。そして、それが自分の定めだと、自分に言い聞かすのです。しかし、イエスというお方は、私達を力で屈服させる人では、ありませんでした。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言って、イエス様ご自身の荷物を共に担ってついて来るようにと、お命じになるのです。イエス様が負われた荷とは、元々、私達の罪が作り出したもので、私達の荷なのですから・・・。

洗礼を受ける前、こんな事を考えてしまいました。もしイエス様が十字架の上で死なれず、その後も生きておられたら、それまでのイエス様と同じで居られただろうかと・・・。エルサレム入城の際、賛美して迎えた群衆が、処刑のシーンでは、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び狂ったのです。そういう、イエス様の心をわかろうとする事もない、罪そのもののような群衆を救うため、罪を抑え込むために律法遵守を強いていたファリサイ派や律法学者達を敵に回したのが、イエス様だと思います。なぜ、全ての人類を救おうなどと思われたのか・・・。イエス様なら、イスラエルの王になる事だって出来たかもしれないのに、そのような英雄は真の救い主ではないと、ご自分の信じる道を突き進まれたのが、イエス・キリストなのだと思います。

格好のいい軍馬より、黙々と仕えるろばを用いられたイエス様。権威や権力を否定されたイエス様。完全であろうとせず、罪を認めるようにと言われたイエス様。そのイエス様に受洗前、抱いてしまった反抗の気持ちは、サタンの仕業に他ならないと思います。ろばのように、「主がお入用なのです」と、イエス様から必要とされるクリスチャンでありたいと思います。
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