[新約聖書 ルカによる福音書22章35~38節]
聖書のこの箇所では、最後の晩餐の中でイエス様が使途たちに「財布と袋と剣」を持つように言われています。実は、この御言葉は、ルカ9章1節以下で、杖・袋・パン・金・2枚以上の下着を旅先に持っていってはならないと言われた事に関連付けられたものだったのです。9章では、信仰に、それらの物品は必要のないものであると、仰せになられたイエス様が、死を目前にして、それとは全く逆の事を仰せになられたのでした。
深く読み解こうとしなければ、この御言葉はイエス様が権力による迫害に屈し、信仰の力以外の力、すなわち物品や武力を必要なものとされた、という意味に取れると思います。ですが、イエス様が迫害に屈して、御心を変えてしまわれる方だとは、とても思えません。実際のところ、イエス様はどのような意味を込めて、この御言葉を使徒たちに言われたのでしょう?
この疑問を読み解くヒントが、たった二振りの剣があると聞いてイエス様が、「それでよい」と答えられた所にあると言います。本当に一戦を交えるつもりだったら、もっと多くの剣を集めるように言われるはずです。また、もう一つのヒントは「犯罪人の一人に数えられた」という、イザヤ書からの引用です。これは、イエス様が罪人の一人として数えられる事を意味しているそうです。ですが、それは十字架にかかる時であって、イエス様ご自身の罪によるものではなかったのです。
私はこの箇所を読んで、イエス様の人間たちに対する、深い憐れみの気持ちを感じ取りました。「悪に対し、悪で報いてはなりません」、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」と言われたイエス様が、ご自分も罪人となることで、人間たちを赦された、そんな風に思いました。
でも、聖書はキリスト教を完全なものとする使命を帯びた読み物です。イエス様をこの時点で罪人に加えてしまったら、教義が根幹から変わってしまうと思うのです。それでかどうかは、わかりませんが、正しい解釈としてはこうです。イエス様は、ご自分が捕らえられた後、弟子たちが恐怖のあまり、イエス様を見捨てて逃げると予告されているのです。そして、イエス様から離れることにより、自分の手で自分を守らなければならなくなると、そう嘆いておられるのです。不安が求めて行く最後のものが「剣」なのですから・・・。
聖書のこの箇所で、イエス様がご自分の中に罪を認めておられたかどうか、謎だと思います。人の子として肉の苦しみを知るとは、そういう事だと思うからです。ですが、イエス様には神様から与えられた壮大な使命がありました。ですから、二本の剣は弟子たちが使うためのもので、犯罪人の一人に数えられるというのは、弟子達の罪ゆえでなければならなかったのです。そして、そうする事が、「救い」を完成させるための道だったのです。二本の剣が持つ意味、かみ締めたいと思います。
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