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快楽主義・禁欲主義・清貧主義

前回の日記の続きで、PHP文庫の『必ずわかる!「○○主義」事典』から・・・。

快楽主義と聞いたら、お金儲けして、貯めたお金で贅沢三昧するイメージがあるけれど、快楽主義には、実は2種類あるそうです。一つは「ヘドニズム」と言って、欲望が満たされるまで(ある程度満たされて欲望が弱まれば、新たな欲望を作ってでも)快楽に固執する主義で、もう一つは、自分の本当の快楽だけを追求する「エピキュリアニズム」です。エピキュリアニズムの場合、苦しみから解放され、魂が平穏である事のみを欲するので、禁欲主義や清貧主義と一見同じに見えてしまうというのです。※エピキュリアニズム・・・古代の哲学者エピクロスが主張した考え方。「隠れて生きよ」という名言があるそうです。

それでは、「エピキュリアニズム」に近いけれど、本質的に異なる「禁欲主義」や「清貧主義」とは何かと言いますと、「禁欲主義」とは厳しい世間の荒波の中に身を置きつつ、あがいても無駄だから、我慢や不動心を養い、黙って世の中の法則に従って行こうという生き方で、「清貧主義」とは、あえて貧しい生活に身を投じ、無垢で清純な生き方が良いと主張するが、その中には秘かな競争意識があり、不浄な世の中への挑戦を含んでいるのです。

なんだか、目から鱗でした。現在の私は、たぶん、「エピキュリアニズム」なのでしょう。このSNSをやっているのも、その現れの一つだと思います。私にとって、必要以上の贅沢は楽しみではないし、むしろ、精神世界の話などをして、共に楽しめる人達とだけ語り合い、適度な刺激や心の平安を得たいと思っているんです。

でも、「禁欲主義」や「清貧主義」も取り入れている、あるいは、取り入れようとしていると思います。私の親が私に教えたのは、そういった生き方だったと思いますし、大きく異なる生き方という感じは受けません。それに、聖書を原理主義的に(そのままに)解釈するなら、明らかに「清貧主義」に乗っ取っていると思います。「清貧主義」は「asceticism」の事で、asceticとは、苦行僧を意味するそうです。なので、清貧主義の人は断食や苦行を良しとするのです。ですが、ブッダは世を捨てた後、荒野で苦行を重ねましたが、その挙句に「苦行では悟りを得ることができない」と悟ったそうです。その理由は、苦行の中に潜む、競争意識や世間との秘かな関わりの意識に疑問を持ったからなのだそうです。

3つの主義は、「貧しさ」という性質を共有していますが、エピキュリアニズムと禁欲主義は「隠遁・忍耐」を特徴とし、清貧主義は「顕示」という特徴を有するという違いがあります。感性で捉えると、とても似通った考え方のようにも思えるので、この違いには、この本を読むまで、はっきりと認識出来ずにいました。
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「他我」について

今、『必ずわかる!「○○主義」事典』(吉岡友治著・PHP文庫)という本を読んでいます。まだ途中ですが、面白い部分があったので、シェアさせていただきたいと思います。

「自我」ならぬ「他我」という言葉があるそうですが、「自分が人間と認めた範囲で、相手を自分のように考えることの出来る、他人の心」というような意味だそうです。要するに、理解し、同情できる他人の心、とでも言えば、もっと簡単でしょうか?他人にも心があるのは当然ですが、理解し、同情できる他人の心には、範囲があるというのです。

「博愛主義」は、すべての人間を「他我」としてとらえ、自分と同じように接します。ですが、このような考え方をする人は大変少ないのです。そして、「愛国主義」は、同じ国籍を持つ人しか「人間」と認めず、他の国の人には「他我」を認めないのです。

「他我」を認める範囲を狭めると、人種差別が生まれ、その範囲に入らない者から猛烈な抗議を受けることになります。

「博愛主義」はほぼ、「利他主義」と同じです。これらの考え方は、「平和主義」として態度に表れますが、平和が一番だという考え方は、たとえ不正であっても、平和であれば許容してしまうという意味を含み、そんな事では、自分を「人間」として認めない相手に、自分を「他我」として認めさせられません。絶対的な平和主義を守るだけでは、単なる「敗北主義」に陥ってしまうのです。

著者の結論・・・・「抗議と異議申し立ての行動は、正義が行なわれるために必要である。」

聖書、とくに新約聖書は、「博愛主義」、「平和主義」に乗っ取っていると思うのですが、結果的に「敗北主義」になっている気がしたので、少し、興味深いと思いました。でも、イエス様は復活されたし、十字架は敗北ではなかったのですよね・・・。少なくとも、イエス様の「他我」を認めない人は、クリスチャンには居ないはずです。クリスチャンだけでなく、すべての人に、イエス様の「他我」、すなわち御心を伝えるのが、キリストを信じる者の役割なのでしょう。

アガペの愛

[新約聖書 エフェソの信徒への手紙5章21~24節]

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい(エフェソ5:21)」

この御言葉は、クリスチャンの理想的な人間関係の基礎について述べているそうです。「仕える」はギリシャ語の「ヒュポタソマイ(直訳:従う)」を訳したもので、イエス様に対し仕えるように、隣人に対しても仕えなさいと、私たちに伝えているのです。夫婦関係も親子関係も、主人と僕の関係も、あらゆる人間関係において、聖書は「仕え合う」ことを私たちに求めています。

ギリシャ語には「無条件の愛」を表す「アガペ」の他、「求める愛」を表す「エロス」、また「ギブ・アンド・テイクの愛」を表す「フィリア」という言葉があるそうです。一言に「愛」と言っても、その本質は多種多様なのです。私たちの殆どは、親、とくに母親からアガペの愛を受けて育つと思います。それだけが愛だと思って育つと、大人になって、エロスやフィリアを理解する事が出来ず、とまどうと思います。逆に、アガペを知らずにエロスやフィリアだけが愛だと思って育った子供は、大人になって、アガペを否定するようになるのではないか、という気がします。聖書を理解するうえで欠かせない存在のサタンは、この、アガペを否定する人間存在の象徴のように思います(あくまで、私の自論ですが)。

大人になるというのは、アガペから卒業して、エロスやフィリアを知る事のように思います。また、アガペを受ける側から与える側へと変わる事でもあると思います。しかし、表面上アガペを必要としない人間になれたとしても、心の奥深い場所では、常にアガペを欲しているのが、私たちなのではないでしょうか?それは、アガペが他の愛に比べ、ずっと、得がたいものであるからです。権力や地位を持つ事により、また、物質的に豊かになる事により、他人が奉仕してくれたりします。あるがままの自分を受け入れ、何一つ文句も言わずに、尽くしてくれたりします。ですが、それがアガペではない事を、たいがいの人は知っています。そして、その寂しさを紛らすように、成長した大人は、エロスやフィリアで心を埋めるのではないでしょうか。

イエス様は「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい(マタイ20:27)」と言われています。自ら弟子の足を洗われたのは、そのためです。神様の恵みを受けた私たちがすべき事は、隣人に対して僕のように仕える事なのです。ですが、なかなかそれが出来ていない現実があるように思われます。それは、私たちの心がアガペに飢えていて、「まだまだ自分が愛されたい」、「自分の方こそ仕えてもらいたい」と思っているからだと思います。現実的に、全ての隣人に仕えていたら、自分自身が壊れてしまいますし、サタンはそのような人間を見て笑い、蔑むでしょう。ですが、それをやられたのが、イエス・キリストであったことを覚えたいと思います。偉大なイエス・キリストに倣い、出来る限り隣人に対し、僕のように仕えることの出来るクリスチャンになりたいと思います。
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