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復活についての問答

[新約聖書 ルカによる福音書20章27~40節]

この箇所では、復活を信じないサドカイ派の人々が、イエス様に対し、議論をしかけます。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」という、モーセの律法の掟を引き合いに、もし7人兄弟がいて、7人とも子を残さなかった場合、全員の妻になった女は、復活の時、誰の妻になるのか、という質問でした。すなわち、神の掟は、一人の女性が同時に何人もの夫を持つことをよしとしていない以上、復活があるなら、神の掟の中に矛盾が生じてしまうではないか、という理屈でした。イエス様はこれに対し、復活する人は天使に等しい人だから、復活後にめとる事も嫁ぐ事もない、とお答えになります。

ですが、この箇所で聖書が問題にしているのは、復活があるかないかではなく、イエス様は知識と律法の遵守という、血の通っていない非人間的な信仰を、人間的で「生き生きとした信仰」へとよみがえらせるために戦われた、という事なのです。37節、38節には、こうあります。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」神はいつでも、生きている者の神であり続ける方だから、たとえ死んだ者であっても、神はそれをご自身の前に復活させ、生きた者とされる、というのです。

この事は、神様がお造りになった私たちにとって、無駄なことなど、一切ないという事を伝えています。孤独も、病気も、不幸も、悩みも、痛みも、一切が、神様の御前では無駄な事ではなく、すべてが命を帯び、意味あるものとして輝きを持つのです。

神様は、ご自分が「ある」とおっしゃいました。この事は、キリスト教を特徴づけるものだと、昨年受講した教会のセミナーで教わりましたが、その神様の一言が、罪と死の奴隷となっている私達人間にとって、唯一の救いとなっている、というお話でした。バベルの塔を建てるように、人間は自らの力を試して生き、最終的には自らが神になり代わろうとします。それは、人間の最も犯してはならない罪です。ですが、すべては無駄で意味のない事だと思い、絶望的になっている事を、神様は望んではおられないと思うのです。神様から希望をいただき、御心に従って歩んで行けるようでありたいと思います。
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