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他人を救える人

[新約聖書 ルカによる福音書23章26~43節]

この箇所には、イエス様と共に十字架につけられ、処刑される2人の犯罪人のことが書かれています。この2人は重罪人でありながら、イエス様に対して、異なる態度を見せます。一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言い、もう一人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに、我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と言ったのです。イエス様は後の方の犯罪人に対し、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

このやり取りがどのような気持ちのやり取りであったか、はとても興味深いと思います。拷問のうえに人々の罵声を浴び、屈辱の中にいたイエス様に対し、犯罪人の一人が、同情とも、敬意とも取れる発言をしたのです。イエス様に対し、同情を寄せた者達が他にいました。最後までイエス様に寄り添って歩んだ婦人たちです。イエス様は彼女達に対し、「わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供たちのために泣け」と言われます。イエス様は最後の最後まで、救う立場のお方でした。同情の言葉に「ありがとう」という意味の言葉を述べるのではなく、「むしろ、自分の事を心配しなさい」と言われたのです。イエス様に人として、私たちと同じ心があったなら、婦人たちの寄せた同情、また犯罪人が言った言葉に救われる気持ちになられたでしょう。でも、最後まで、イエス様は御自分の事より、罪人である私たちの事を心配し、憐れまれたのです。そして、犯罪人に対して、楽園での再会を約束されたのでした。これは、「わたしは、あなたのことを思い出す」という意味だったそうです。死後、イエス様から思い出していただくという救いです。なんという、ありがたい救いでしょう・・・。

人間社会にも、救う側、救われる側、という立場は存在すると思います。職業で言えば、政治家や教師、医師、福祉関係者、カウンセラー、教会の牧師さんなどが「救う側」にあたるでしょうか・・・。そうでなくても、人間関係はどちらかに偏っている事が、よくあると思います。でも、救う側も、救われる側と基本的には同じ弱さを持つ人間ですから、理想どおりには行かず、関係がギクシャクしてしまうと思います。ですが、イエス様は本当に最後まで、救う側の人だったと思うのです。ひょっとすると、イエス様にも、寄せられた同情に慰められる気持ちが、ほんの少しあったかもしれません。でも、それさえも、「弱さ」として否定されたのでしょうね・・・。イエス様が貫かれたのは「他人を救い、自分を救わない姿勢」だったとの事です。それは利己的な人間がするように、「他人を捨ててまで、自分を救おうとする」ことと、対極であると思います。

強くなければ他人を救えません。弱さもなければ、他人を理解できません。「強さ」と「弱さへの理解」と、そして、「他人を救って自分を救わない姿勢」がいくらかでもあれば、イエス様という偉大なお方に、ほんの僅かでも、近付くことが出来るのかもしれませんね。
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