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アリマタヤのヨセフ

[新約聖書 ルカによる福音書23章50~56節]

イエス様が十字架に付けられ、息を引き取られた後、そのご遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、岩を掘って作った墓の中に納めた人がいました。アリマタヤ出身のヨセフです。マルコで「身分の高い議員」(15:43)と紹介されており、おそらくは最高議会の議員のひとりだったと考えられています。つまり彼は、イエス様を「十字架にかけて殺すよう」と訴えた人達の側に居たのです。しかし彼は、自分の立場が悪くなる危険を犯してまで、ポンテオ・ピラトの所へ行って、イエス様の遺体を渡してくれるようにと願い出たのです。そして、おそらくは彼自身のために用意してあったであろうその墓へ、イエス様を葬ったのでした。

ルカでは、ヨセフのことを、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」(23:50)と紹介しています。また、彼は「神の国を待ち望んでいた」(23:50)と書いてあります。実際、ヨハネの福音書の12章42節にあるように、議員の中にも、イエス様を信じる者は多かったのです。ですが、他のユダヤ人たちを恐れるがあまり、その事を隠していたのです。

牧師先生の解説では、ヨセフの行いは「弱さを抱えたままの奉仕」だったとありました。ヨセフは、ファリサイ派の人々に対し、明確に反対意見を述べるほどの強い信仰は持っておらず、反対も賛成もしないという、煮え切らない状態のままで居たのです。しかし、イエス様が亡くなられることで、「もう、これでおしまい、ここには何も期待することなどない。すべてが終わってしまったのだ」という絶望的な気持ちになった彼がしたことは、彼の希望であったイエス様を、自分が用意した墓に葬って差し上げる事でした。

私がこの箇所で気になったのは、ヨセフのような恵まれた地位にある人が、何をイエス様に期待していたのだろう、という事です。ヨハネの福音書には「彼ら(ファリサイ派の人々)は、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:43)と書かれていますが、ヨセフのような議員たちは、人間からの誉れを得ただけでは、心を満たされる事がなかったのかもしれません。恵まれた地位にあった彼らは、お金の事で困ったりはしていなかったでしょう。貧しい人々や病を抱えた人々に対し奉仕する事を勧め、卑しいとされる職業の人達とも積極的に交わられたイエス様に、彼らは何を期待したのか・・・?少なくとも、自らの現実的な利益ではなかったと思うのです。そうではなく、彼らが生きていた権力社会の中で、得ることのできない心の平安というようなものだったかもしれないし、弱い立場の人々の上に立って、贅沢三昧な生活を送っている事の後ろめたさだったかもしれないと思います。ある意味で、彼らは本当に神を求め、神を畏れていたのではないかと思うのです。

牧師先生の解説では、私たちが信じる神は、一番期待できないと思われるところから、恵みの業を引き出すことがおできになる方なのだそうです。ヨセフのように、イエス様と最も激しく対立した人たちの中から、イエス様を葬る人間を引き起こされたのですから・・・。主が復活なさった時、墓は終わりを意味しなくなり、新しい命への旅立ちの場になりました。神様は、一番期待できないと思われたところから、最も大いなる恵みを引き出されるのです。
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