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エマオの途上

[新約聖書 ルカによる福音書24章1~35節]

この箇所には、イエス様の処刑後、二人の弟子が故郷であるエマオへと向った時の事が書かれています。時は夕暮れ、あたりは次第に闇に包まれていきました。そんな時、一人の人が近付いて来て、メシアや聖書全体について話しました。二人はその人と共に食事をしますが、その人がパンを裂いて渡した時、その人がイエス様である事に気が付いたというお話です。この時の出来事は、有名な絵となっているそうで、ネット上にありましたので、アップします。ですが、興味深い事に、夕暮れであるはずのこの場面が、朝の光が射す森の道として描かれているのです。この事には、ある意味が隠されていると言います。

エマオへの途上において、二人の弟子たちは、失望のどん底にいました。最初、イエス様だと気付かなかったのも、悲しみがあまりに深かったからです。エマオは、彼らの故郷です。かつて捨てたはずの生活に戻って行くことが、望みを絶たれた彼らに残された唯一の道だったのでした。彼らの失意の根っ子にあるものは、「救い主としてのイエス様」が分からなくなったことでした。弟子達もこの時まで、イエス様はイスラエルをローマの支配から解放してくださる方だと信じ、望みをかけていたのです。ですが、イエス様の救いとは、そのような事ではありませんでした。彼らの思い描いていた救い主のイメージをはるかに超える、聖書が預言し、語っていた通りのメシアだったのです。エマオで失意のまま、生活を始めようとしていた弟子達をよそに、イエス様は、エマオよりもなお先に進もうとなさいます。それは、「失意のままで終わる生き方を、あなたたちのゴールとしてはならない。私たちはなお、その先に進むのだ。このままで終わらせてはならない。」というイエス様の意思表示でした。二人の弟子は、エマオへの途上で心が燃えた事について話し合います。このイエス様との対話を通して、二人の傷は癒され、失われていた希望も復活したのです。

有名な「エマオの途上」の絵がなぜ、夕暮れではなく、朝の場面として描かれているか。それは、復活の主と共に歩む道は、前方に広がる光へと進んで行く道であり、次第に暗くなって行く歩みではない事を表現しているそうです。イエス様が亡くなられた後、婦人たちも、生涯をかけてイエス様のご遺体の番をすることで、最後の慰めを見出そうとしました。美しい命や夢の儚さを嘆く、それが、敗北の後、人の出来る精一杯の事かもしれません。ですが、イエス様は、ただ人々の涙を誘う、弱く儚げな救い主ではなかったのです。復活を信じる私たちは、死に支配されない、死を越えた望みに生きることが出来るはずです。失意の底にある時も、イエス様を追って、エマオから先へ、一歩一歩、歩み出していけるようでありたいと思います。

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