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命令としての愛

[新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章25~33節]

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。(エフェソ5:25-27)」

聖書のこの箇所では、理想的な夫婦愛について書かれています。キリスト教の結婚式といえば、「富める時も貧しき時も、健やかなる時も病む時も、変わらずに愛することを誓いますか?」というような誓いを立てるという印象がありますが、実は、この誓いは夫婦間での誓いではなく、神様に対する誓いなのだそうです。その証拠に、誓いの言葉を述べる時、夫も妻も、前を向いて誓約します。結婚式で誓う愛とは、神様からの命令による愛で、自発的な愛ではないとのことです。

私はもう、この先結婚をするような事はないでしょうから、「そうだったのか」程度に受け止められますが、結婚に夢を抱いている若い人達には、なにか物足りなく思えるのではないかと思います。若い頃は私もそうでしたが、理想の結婚とは、親や親戚や友人から反対されても一緒になりたいと思うような相手と、他のものをかなぐり捨ててでもするものだと、どこかで思っていましたから・・・。

でも、人生の半ばとなると、確かなのは、聖書にあるように、「神様からの命令に従う愛」、言葉を変えれば、「与えられた運命に従う愛」だと思うようになります。私たちが自発的に抱く愛というものは、もっと激しいもので、相手に異性として認められたい、もっと愛されたい、愛を独占したい、というような感情であると思いますが、その愛をよく分析してみれば、欲しがっているのは単純に相手の「愛」そのものではない場合が多いと思います。人によっては、豊かな暮らしだったり、地位だったり、名声だったり、才能だったり、自分の魅力を試す事だったり、欲望や虚栄心、プライドを満たす何かを欲しているのを、「狂おしい愛」だと思い込んでいるように思うのです。

人間の抱く愛が、いかに頼りなく、我がままで自分勝手なものであるかに気付くと、私たちの心は折れてしまいます。愛する事に疲れ、それでも「愛さなくては愛されない」という事実と向き合い、より一層、疲弊していきます。サマリアの女がそうだったように、心がカラカラに渇いてしまった時、私たちの心を潤し、新たな息吹を吹き込んでくれるのが、神様の愛ではないでしょうか。「アガペ」の愛、神様が人間に与える一方的な愛です。私たちが愛に絶望し、疲れ切っていても、神様はそんな私たちの事を憐れみ、慈しんでくださいます。そしていつも、私たちを励まし、見守っていてくださるのです。
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