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自分の足で立つ

[新約聖書 ヨハネによる福音書5章1~9節]
[新約聖書 マルコによる福音書2章1~12節]
[新約聖書 使途言行録3章1~10節]

ヨハネによる福音書の5章1~9節は、「ベトザタの池」でイエス様が病人を癒されるお話です。その病人は38年間も病気を癒すとされるベトザタの池の脇へ横たわり、池の中に入るチャンスを待っていましたが、皆が我先にと入ろうとするので、入る事ができず、ずっと病から開放される事がなかったのです。その人に向かい、イエス様は「床を担いで歩きなさい」と言われます。すると、その病人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出したのでした。

この話は、洗礼準備会で初めて読んだのですが、読んだ当初、私はこの話が語っている意味を、ほとんど理解できていませんでした。38年間ベトザタの池の脇へ横たわっていた人は、最も癒しを必要としている人の象徴で、その人が癒される順番が最後になるのは理不尽なのか、それとも自然の理なのか、という所にばかり意識が向いてしまっていました。でも実は、この人は、自分が救われない理由を、他人のせいにする人を象徴していたようなのです(教会の月刊誌による)。そして、「床を担ぐ」という行為は、「自分の人生に向き合う」という事を指し示しているそうです。では、なぜ、その人は自分の人生に向き合う事が出来たのでしょう?その人は、いつしか、自分の人生を投げ出し、自分を差し置いて癒されようとする人達を眺めて、観客や評論家のようになってしまっていました。でも、イエス様にすべてを打ち明け、受け入れられた事によって、自分と向き合い、自分の人生を再スタートさせる勇気を持つことが出来たのです。

「床を担いで歩け」というイエス様の御言葉は、マルコによる福音書2章の「中風の人」をイエス様が癒されるお話にも出てきます(9節)。また、それと似たような言葉が使途言行録の3章に、ペトロの言葉として記されています。「美しい門」という神殿の門のそばで物乞いをしていた足の不自由な人に対して、ペトロが「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのです。そして、いずれの話においても、病人達は自分の足で立ち上がり、歩き出したのです。

私は最初、キリスト教を誤解していました。困った時の神頼みで、神様に頼れば苦境から救ってもらえるとか、もっと極端な言い方をすれば、何の努力もしないでいても、神様の力で幸福にしてもらえる、そしてその恩恵は不幸な人、弱い人、罪深い人ほど多く与えられる、というような理解をしていたのです。もしそうであれば、キリスト教は自力で何もできない駄目な人間を量産してしまうような教えだと、正直なところ、思っていました。もし本当にそうなら、信じる価値がないようにも思いました。でも逆に、真理とは何だろうという好奇心を刺激され、疑問を解決したくて、牧師先生の説教を聴きに教会へ足を運ぶようになったんです。

今回取り上げた3箇所では、自力で前向きに生きることの大切さが示されているように思います。実際、キリスト教は「他力本願」の宗教とは異なり、人間の願望を神様が叶えてくれるというような、人間にとって都合の良い「神頼み」ではないと教わりました。でも、自力で自分の利益のために生きる事もまた、勧めていないのです。私たちは神様の僕です。神様から命や賜物をいただき、神様によって生かされているんです。そして、私たちがするべきことは、必ずしも自分を幸福にすることではなく、神様の偉大さを証しし、その栄光を讃えることなんです。

新約聖書が書かれた頃、生まれつき体の不自由な者は、神に見捨てられているとみなされていたそうです。神の恵みの麗しさを現す「美しい門」の前で、使徒言行録3章の足の不自由な男性は、神の恵みとは無関係な者として、そこにいました。なんとも、皮肉で痛ましい情景だっただろうと思います。まだヨブ記を通読していませんが、神様のこのような側面について考えることは、聖書の理解における、最も難しい部分のように、私には思えます。実際、人は同じ条件で生まれて来るものではありません。生まれ持ってのハンデもあれば、環境というハンデもあるのが実際のところだと思います。ですから人は、自分の生まれもっての条件が悪いからこうなった、自分を取り巻く環境が悪いから、あの人のせいで自分はこうなったと被害者的に考え、周りのせいや、ひいては神様のせいにしてしまいたがるのです。でも私はこう考えます。もし、神様が結果しか見ないお方だったら、恨まれても仕方ないと思うのです。モノを投げて、それを口に咥えて持って来た犬にだけご褒美を与える、そうではないと思います。足の不自由な犬には、不自由ではない残りの足で立つことを望まれ、立ち上がった時には思いっきり褒めて、ご褒美をくださるのではないでしょうか?私はまだ未熟なクリスチャンですが、神様を、そのような方だと思い、信仰しています。
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こんにちは しばらくです

シトリンさん

お久しぶりです。MY HOPEでお話しさせていただいた、riellaです。

聖書の読み方にはコツがありますね。ただ読むだけでは理解できなくても、牧師さまや神父さまのお話を聞くとすとんと腑に落ちたりしますね。
私も求道中に神父さまから、「自分でできることは最大限やり、そのうえで神様に祈りなさい」と教えていただいたのを思い出しました。全くこの「自分の足で立つ」ということだったのですね。

人は確かに平等ではないと思います。神様の目には平等だといわれても、肉体にとらわれた私たちの身には、どうしてもそう思えないものですね。
それでも他者のせいにせず、自分の足で歩きたいとずっと思っていましたが、そうすると疑問が次々湧いてきて、生きるって何だろうと思わざるを得ないのです。
でもそれを神様がほめてくださると思えば、大きな報いがありますね。

では、またお邪魔します(^^)/

No title

riellaさん、お久しぶりです!!コメント、どうもありがとうございます。m(_ _)m

>自分でできることは最大限やり、そのうえで神様に祈りなさい

なるほど、「人事を尽くして天命を待つ」というような考え方ですね。宗派によって解釈はさまざまでしょうし、牧師先生によっても多少、異なるのだと思います。私の通っている教会では、どう解釈するかは個人の自由、という感じですので、今回取り上げた3箇所の解釈の仕方も、いろいろ違いはあるかもしれません。なので、あくまでご参考までに・・・。

「ベトザタの池」や「中風の人」や「美しい門」の話で立ち上がった人達は、自力で立てるようになったのではなく、イエス様の起こされた奇跡によって立つことが出来たとも受け取れますし、どちらかというと、そちらが一般的な解釈ではないですか?神様をとにかく信じて依り頼み、自分の全てを委ねる事こそが信仰だ、という考え方が間違っているとは思いません。信じて救われる事こそ、誰もが持っている願望でしょうから・・・。でも、それがしたくても出来ないのが現実の世の中ではないですか?私はキリスト教の中も、「自力」の勧めがあると思いたいです。

このブログは、私の頭の中を整理するノートみたいなものですが、これからも是非読んで、思った事などあれば、コメントしてください。^^

No title

訂正があります。
この前のコメントで書いた「奇跡」という漢字は、
正しくは「奇蹟」でした。
どうも、すみません。m(_ _)m
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