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いちじくの葉/信仰という盾

[旧約聖書 創世記3章7節]
[新約聖書 エフェソの信徒への手紙6章16節]

エデンの園の中央にある「善悪の知識の木」から実を採って食べたアダムとエバは、自分たちが裸であったことを知り、「いちじくの葉」をつづり合わせて腰を覆いました。これは、全てが備えられた環境であっても、神様との関係が切れることによって、人間の心が不安に満ち、自分自身を隠し、ごまかして生きるしかなくなったことを意味しているとのことです。自分の内の平安を失った人間は、自信喪失の結果として、「いちじくの葉」によって自らを飾る生き方を選ぶようになりました。つまり、自分で自分を守る生き方を始めたのです。

人間が自分自身を守るためのものとしたのが、学歴、資格、能力、健康、財産、社会的立場といったものでした。しかし、それらは永久に持ち続けられるものではなく、気を抜けばすぐに失ってしまうものでした。自分のコンプレックスを隠すためのこれらの「いちじくの葉」は、かえって「失うこと」の恐怖を生み、また失った時の苦しみは生きることを困難にするほどのものとなったのです。

私には精神障害を持つ知人が何人かいますが、彼らとコミュニケーションをしていると、病気の正体が、その人の中のコンプレックスであることに気付かされることがあります。また、よくあるケースとして、素晴らしい過去の思い出があるのに、何かしら自分を支えていた条件を失って、自信を失っているのです。私はその「条件」こそ、「いちじくの葉」なのだと思います。明朗で社交的だと言われていた過去、有能だと期待されていた過去、裕福で貴族のような暮らしをしていた過去・・・。しかし、何か「条件」を失うことによって、その人の人生は変わってしまい、その変化に対応するのが難しくて、うつ病や統合失調症などの病気を発症してしまう人も多いのではないかと思います(専門的な知識はないので、あくまで推測です。また、「なりやすさ」、「脆さ」といった、先天的な条件も影響するそうです)。コンプレックスを隠す「いちじくの葉」を持たない、あるいは失った人たちは、人生を諦め、差別的な言動などによって、寂しさを紛らしたりするのだと思います。

聖書にとても気になる箇所があります。「ルカによる福音書 6章20~26節」です。「幸いと不幸」という題名が付いています。簡単にいえば、今幸福な人はやがて不幸になり、今不幸な人はやがて幸福になると言っているのです。これは真理とも言える事柄なのではないかと思います。でも、それは残酷な真理でもあって、受け入れられない人も多いのではないかと思います。それこそ、「いちじくの葉」を失う恐怖を伴うからです。実際、それを失うことによって、生きていけなくなる人もいるでしょう。それは果たして神様の御心なのでしょうか?

教会でいただく月刊誌には、それに対してこのようにアドバイスしています。「いちじくの葉」の代わりに「信仰」という「盾」を取りなさい、というのです。私たち人間がサタンの火の矢の前に無力であることを認め、「いちじくの葉」が虚しいものであることを深く心に刻むのです。しかし能力や健康や財産などは、神様が私たちに与えてくださった賜物でもあります。ただ、私たちはそれらを自分のものだと思うのをやめ、神様のために用いていないことを悔い改めるべきなのです。

「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。(エフェソ6:15-16)」

信仰を盾とし、神様の愛によって生かされていることを誇りに生きて行けるようになりたいです。
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