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信仰について

今日は洗礼準備会5日めでした。

[マタイによる福音書 4章1~11節]

「人間はパンだけで生きるのではない。神様の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(4節)
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」(10節)

これらの御言葉はイエス様を誘惑し、試そうとする悪魔に対してイエス様が発せられた言葉です。神の子だと言うのなら、石をパンに変えてみろとか、神殿の屋根から飛び降りてみろ、と言う悪魔に対し、イエス様はこれらの言葉で対抗し、悪魔を立ち去らせたのです。素朴な疑問なのですが(聖書は事実をそのままに記したものではないと思うので・・・)、なぜ、イエス様は悪魔の要求以上の奇跡を起こしてみられなかったのでしょうか。自分なりに答えを出すと、悪魔とは、理想と現実との違いを見せ付ける事により、信仰心を奪おうとするものだからではないでしょうか。口では何とでも綺麗事を言える、でも実際に人を救ったりできるのか、というように・・・。しかし、あえてイエス様は悪魔の挑発に乗られなかった。イエス様がムキになって奇跡を起こしたとしたら、それこそ悪魔の思う壺で、イエス様が悪魔に主導権を握られたことになってしまったのだと思うのです。

[ヨハネによる福音書 4章1~30節]

サマリア人の女は、自分が過去に5人の夫を持ち、今は6人目の男性と同棲をしている事を言い当てたイエス様を預言者だと思い、自ら信仰について語り始めます。彼女はユダヤ人から蔑まれていたサマリア人でありながら、キリストというメシアがやって来る事を待ち望んでいたのです。そんな彼女に対しイエス様は「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と告げられたのでした。すると、サマリア人の女はそれまで避けていた人々に会いに行き、メシアが現れた事を伝えたのです。

私は女の夫の数を言い当てたイエス様は、人を見抜く力を持つ人を象徴しているように思いました。イエス様は、人を避ける行動をしていた女の様子から、不道徳ゆえの後ろめたさを引きずっている事や、愛し愛される事を諦めてしまったような彼女の気持ちを察知されたのです。人間は、自分の隠している部分を見抜いた人に対して、一種の畏敬の念を持つものだと思います。そして、その事により、女はイエス様を本物のメシアだと思うようになったのだと思います。

「信仰について」ですが、牧師先生も話されていましたが、キリスト教のような唯一絶対の神への信仰は、仏教などと異なり、「イエスを神と信じるか」というような疑問が付きまとうと思います。もし、私達と同じ人間であるイエスという人が、自分をキリストだと言い放った場合、イエスという人の人格に対する抵抗感を持つ人もいると思います。ですが、仮にイエス様が人間だったとしても、最期、亡くなられるその時まで、その信念を貫き通したという事によって、神様と同格になられたと思うのです。完璧な理想の姿が示されているからこそ、信者は魂の救いをそこに見出すことが出来るのだと思います。
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