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礼拝とは

[新約聖書 ローマの信徒への手紙12章1~2節]

1つに、「礼拝」とは、「献身」です。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とあるように、「私は主のもので、私の人生は私のものではない」と考え、主によって導かれることが大切なのです。しかしそれは、自分の人生の「計画」を立てないという事ではなく、「計画」を立てても、それを常に主に明け渡していくことが重要なのです。私達は自分で考えて「計画」を立てますが、それは決して悪いことではなく、日常生活の場面において、考え、何かを感じ取り、それらを分析する行為は、誰から命じられるわけでなく、自然に行うものだと思います。それ自体は決して悪いことではなく、いい事なのですが、その上で定めた「計画」を、いつも神様に明け渡し、委ねていくことが大切なのです。

2つめとして、「礼拝」とは、神様をあがめることです。それは、この世の価値観から神様の価値観へと変えていくことです。イエス様を宿したマリアが「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と賛美したように、「礼拝」によって私達は神様をあがめる(メガルノー)事が大切なのです。

3つめとして、「礼拝」とは、「私達の人生にリズムと方向性を与えること」です。1週間の最初の日に礼拝を捧げることは、それによって、私達が天国を目指す旅人であり、天国に凱旋する備えをしているのだ、ということを身をもって証しするのです。私たちが天に召されていく時、必ず何かをやり残して召されていくのですが、コリント第2の手紙4章18節にあるように、見えるものでなく見えないものに目を注ぐことによって、天国において帳尻を合わせることが重要なのです。

以上の3つが「礼拝」の意味だとの事ですが、これらの中に私の疑問への答えが含まれていました。考える事は無意味ではない、という事です。それでも、世の中は矛盾だらけで、わからない事だらけ。若い頃に自分がされて嫌だった事を他人に対してしていたり、しかも、それを正しい事だと思ってしまっていたりするのです。でも、それらの人間の営みの中で物を考えることにより、逆に大切なものが何であるかが、わかって来たりもすると思います。考えることは無意味ではない・・・。そう思うことは、受洗前から私の中でひっかかっていたものを、取り払ってくれました。そして、考えた先は、ただ神様に自分の「計画」を明け渡していけばいいんですね。。

お祈りします。(-人-)
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