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「毒麦」のたとえ

[新約聖書 マタイによる福音書13章24~30節]

ある悪者が、人々が眠っている間に毒麦を蒔いていきます。それを知った僕たちは、その事を主人に知らせますが、主人はすぐに抜かず、刈り入れの時にまとめて刈り取って、焼却するよう命じたのでした。

この箇所では、「毒麦」のたとえ話により、この世の不条理について、語られています。パレスチナでは毒麦の束は燃料として用いられており、毒麦の穂は髭の部分が長いなど、区別が容易である事から、麦が育つまで刈り取らずに待つ、という方法を取っていたとの事です。そして、刈り取らずに待つ事は、悪をそのままに放置しておき、神様に正しく裁いてもらう事を意味しているのです。言い換えるなら、自分で復讐せずに、神の怒りに任せるという事なのです。

  愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は
  わたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と
  書いてあります。(ローマ12:19-21)

悪とはどこから始まるのか・・・?殆どの悪は報復だと思うからです。人間の本質の一部である虚栄心や闘争心や妬み、そういった当たり前の、小さな悪から始まって、大小の犯罪や戦争や・・・、そういうものに発展してしまうのかもしれないですね。私はマリー・アントワネットが、そんなに嫌いではありませんが、フランス革命を起こした原因の一つを作ったというのは、あるかもしれませんよね。でも、幸福過ぎた彼女にも、不幸に対する嫉妬もあってか、小トリアノン宮殿を作り、農民の真似事をするというような事があったんですよね。ないものネダリというのでしょうか・・・?最期には、念願どおり、最高に不幸となったわけですが・・・。(笑)そして、彼女の場合、恋人のフェルセン伯爵が後に小さな復讐をしたそうで、フェルセンによって、多くの農民が働きが悪いと言われてか、殺されたそうです(遠藤周作氏の小説より)。私は人の善悪を考える時、なぜか、この話を思い出します。

レジュメの抜粋をすると、「私たちの現実に、今、そうした悪や侮辱と言う毒麦があるかもしれない。それらを真剣になって抜こうとすると、かえって良い麦までも抜きかねません。」「報復や裁きは神さまに任せて、今、神さまが私に願っておられることに集中して生きることです。神さまはそのことを通して、私たちの心の中に、私たちの周囲に「天の国」の祝福を、確実に拡げて下さるのです。」・・・とあります。

強い者への報復は無理だから、怒りは弱い者へと向けられる。あるいは、善良で優しい者へと向けられる。弱かった者が強くなった時、その報復が新しい弱い者へと向けられる・・・。果てしなく生え続ける毒麦を抜く事より、少しでも祝福に満ちた世界を作ることに、一生懸命になるべきなんでしょうね。。
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