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初詣と新年礼拝の違い

今年の新年礼拝には出席していませんが、レジュメに興味深い事が書かれていましたので、それについて、少し書きます。

キリスト教の信仰は、自力に頼らず、他力である神様を頼って生きる事だと、受洗後もずっと思って来ました。でも、それは少し違うようなんですね。いわゆる「神頼み」の初詣と新年礼拝には、明らかな違いがあると、レジュメには書かれています。レジュメから抜粋しますと・・・

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一般の初詣と私たちの新年礼拝との決定的な違い、それは初詣の中心は「私の願い」であるのに対して、新年礼拝の中心が「創造者なる神さまの願い」ということなのです。
・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・
祈る対象はあまり関係なく、信仰の中心は、あくまでも私の側の信心、信じる心にあるのです。
・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・
聖書の教える信心、聖書の教える信仰というのは、「人格をお持ちの神さまに対する信頼」のことを意味します。
・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・
私の心の中にある願いや祈りが、実は、私が祈る「カミ様」に他ならなかった、ということでしょう。
・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・
天神様として祀ったカミは、私の願望や欲望の投影です。
・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・
私が礼拝しなくても、そのお方はおられるのです。そして、私たちは元来、そのお方を礼拝するようにと造られているのです。
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正直、とてもわかりずらい感じがしますが、私達人間が願う事を叶えていただく、他力本願の他宗教の信仰とは違い、神様を信頼して、神様が願っておられる事に応えるのがキリスト教の信仰である、という事が書かれているように思います。私は少し前まで無宗教でしたし、他宗教を信じる友人も居るので、その信仰を否定するつもりはありません。家内安全、商売繁盛、無病息災を願うのは当然な事ですし、それらの神頼みが間違っているとも思いません。でも、それらの信仰の中に隠されている、さまざまな罪を、神様は知っておられて、いつか人の心が神様を求めるのを、待っておられるのだと思うのです。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません(エフェソ4:26)」とあるように、パウロは「罪に対して徹底的に怒れ、しかし、罪人に対して徹底的に愛せよ」と言っているそうです。神様には出来ても、人間にはなかなか出来ない事、あると思います。でも、そのような「赦し」なしに人間同士の本当の信頼関係は築けないのではないでしょうか?

赦されれば罪を犯し、律法に縛られれば罪を犯さないでいられる私達人間(正確には、律法があっても、罪を犯してしまうのだと思いますが)。不満を十字架で受け止めてもらって神様の愛を知り、神様と和解して、変えられていく恵みに感謝したいと思います。
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